その後、1985年4月に府中6小より、関前南小に佐藤喜重郎先生(後の監督) が赴任。全てが学校の枠の中でのバックアップのため、思いもかけない制約がありました。学校内の組織であったため、活動は学内での練習と市の大会のみしか許されませんでした。他県はもちろん、東京都内の他市の好チームとの交流もできず、日曜日の練習も行えませんでした。
当時のエピソード(佐藤喜重郎先生)
「サッカーを始めたばかりの子供達に、府ロクSCや富士見ヶ丘蹴球団の素晴らしいサッカーを見せてあげたくて、当時担当していた3年生だけを連れて、府ロクや富士見ヶ丘、東大和へ練習試合に出かけました。キックオフの時に子供達がセンターサークルを囲んだんです。笑い話みたいですが、本当の話でさすがに相手チームの子供達もびっくりしていました 笑
その後、1987年に社会教育のスポーツ少年団として発展的な再出発をしました。子供達のより良い、より自由な活動のため、そして団がより広がりレベルアップするために地域に根ざした社会教育の団体に移行しました。